遠江井伊谷の城主井伊直親の寄騎(よりき)小野但馬守は、直親が信長・家康に味方している、と氏真にいいつけた。氏真の一族で新野(小笠郡)の城主新野左馬助が調停したので、永禄五年十二月、直親は弁明と謝礼のため駿河府中に行く途中で、懸川(かけがわ)の城主朝比奈泰能に殺された(『井伊家譜』『井伊家伝』『松平記』『家忠日記増補』)。その墓は祝田にある。直親は、信長や家康の工作をうけたこともあったろう。【井伊直政】直親の遺子はのちの直政である(『細江のあゆみ』3・4号)。二歳で父に死なれ、母奥山氏とともに新野左馬助にひきとられ、左馬助か戦死ののちは松下源太郎清景に養われる。清景は、秀吉の若いころ流寓した松下加兵衛之綱の一族である。
【嫡子信康】永禄六年三月、元康の嫡子竹千代(のちの信康)は五歳で信長の女徳姫(五徳ともいうが実名は未詳)と婚約した。徳姫も五歳。四年ののち永禄十年三月、九歳になった二人の結婚が成立して、松平・織田両氏の同盟関係は姻戚となってさらに強化された。