引馬城主飯尾連竜の離反

9 ~ 10 / 686ページ
 引馬城主飯尾連竜・嵩山(すせ)(豊橋市)城主奥山修理などが信長と家康に内通し、連竜は今川氏に敵対行動をとった。永禄六年に氏真は引馬城を攻撃したが(『蠧簡集残篇』)成功せずに中止した。連竜は翌七年四月、家康に面会し援助をもとめた。【本興寺】家康は出兵し、浜名郡鷲津(湖西町)の本興寺に乱入した。【頭陀寺城 氏真引馬城を攻撃】氏真はふたたび引馬坡を攻撃し、頭陀寺(ずだじ)城(当市頭陀寺町)は戦火にかかった(『頭陀寺文書』『東漸寺文書』)。この城は松下加兵衛之綱の城である(松下氏については『浜松市史一』第五章参照)。【連竜を殺す】十月に氏真は連竜と講和をしたが、永禄八年十二月駿河府中によびよせて殺した。その墓は市内東漸寺にある。
 【江馬氏】連竜の老臣江馬安芸守泰顕と同加賀守時成が城を守って抗戦し、家康に降り来援をもとめた。
 『江馬文書』には、永禄八年(一五六五)極月晦日付で安芸守・加賀守両人にあてた家康の老臣酒井忠次・石川数正連署の起請文、同九年正月六日付で安芸守・加賀守両人に送った家康の家臣渡辺庄右衛門の起請文、同年二月十日付の加賀守あての家康の所領安堵状、また永禄九年正月六日引馬城代江馬泰顕(江馬氏は関ケ原役のとき今切関を守り、元和四年徳川頼宣に仕えることになった『新居町史』史料編一)がかさねて家康に降伏したので、家臣渡辺勢が与えた起請文などがある。いずれも家康の返事であろう。この起請文の交換については市内西来院の溈翁徳祐が介在していたという。しかし家康は遠江に出兵するほど強力ではない。