引馬城に対する氏真の圧迫がましてくる。永禄九年五月四日付で氏真は遠江平田寺(へいでんじ)(榛原郡相良町)に禁制を与えているから軍事行動があったのだろう。引馬城の江馬泰顕・時成は人質をだしてまた氏真に降伏した。四月二十一日付で氏真は両人に所領を保証した。その知行分は千貫分である。四月二十七日氏真は三浦正俊の戦死した功績に対し、子の与次に引馬の地を(『小栗文書』)、鈴木重時と近藤康用(やすもち)に永禄十年八月引馬領のうち新橋郷(当市新橋町)・小沢渡郷(当市小沢渡町)・人見郷(当市大人見町)を加増(『鈴木文書』)している。江馬氏の所領が削られたにちがいない。