[家康の三河国統一]

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 【一向一揆】松平家康が、力強く第一歩をふみだそうとしたまえに、きびしい試練がまちかまえていた。三河におきた一向一揆である。【東三河 三河を統一】家康は永禄六年(一五六三)九月から翌七年三月までこれを鎮定し、さらに東三河に兵を進め、六月には吉田城(守将小原鎮実)・田原城(守将朝比奈元智)をおとしいれ、ほぼ三河全土の統一を完成した。
 しかし家康は、勢にのって遠江・駿河に侵入することもかく、三河の統治に専念し、新しい戦国大名の体制にうつる努力をつづけること三年、永禄十一年まで外部にむかってはほとんど動かない。
 永禄八年のころ室町将軍義輝が信長と家康とに馬をおくるようにもとめたとき名馬一疋を贈り(『誓願寺文書』)、同年三月本多重次・高力清長・天野康景を三河の奉行として民政・訴訟など取りあつかわせた。しだいに行政組織が整ってきた現象である。