戦国大名家康

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 京都では五月に三好義継らが将軍義輝を暗殺した。義輝の弟で奈良興福寺一乗院門跡(いちじょういんもんぜき)の覚慶は、七月二十八日脱出して近江の和田惟政(これまさ)の館に移り、上杉輝虎らに足利家の再興を依頼した。このとき家康も出兵の命をうけて、十一月二十日「仰せの趣は粗略に存じません」と惟政に答えている(『記録御用所本古文書』)。もはや家康は、堂々たる貫録をそなえた戦国大名のように思われる。覚慶は還俗(げんぞく)して義秋(のち義昭)といった。