永禄九年十二月二十九日家康は、朝廷のゆるしをうけて徳川に復することになり、従五位下に叙せられ三河守に任ぜられた。三河国の支配者としての地位を天下に宣言しようとする政治上の目的にもとづいたものである。家康は二十五歳で名実ともに戦国大名の仲間入りができた。永禄十一年正月、三河守家康は左京大夫に任ぜられた(『和歌浦東照宮文書』『公卿補任』『歴名土代』)。しかし天正(てんしょう)二年(一五七四)十月信長は「三河守殿」とよんでいる(『谷井文書』)。そして天正五年十二月正五位上より従四位下、右近衛権少将に進んだ。