家康も信玄とほとんど同時に遠江に侵入した。十二月六日、酒井忠次を遠江に入らせた。【浜名氏】しかし元本坂(引佐郡三ケ日町)で浜名頼広父子・後藤実久(本坂住人)らが武田信玄と通謀し、気賀の郷民に一揆をおこさせている。忠次は引き返して家康に報告した。【井伊谷三人衆】家康は危険な湖北地帯をさけ、奥山・井伊谷方面から進む決意をして、のち菅沼定盈(さだみつ)と都田の菅沼忠久・井伊谷の近藤康用・瀬戸の鈴木重時ら井伊谷三人衆に誓書を与えて降参させ、道案内を命じた。この十二日信玄の使者山県昌景は家康を訪問し、大井川を境とし信玄は駿河、家康は遠江をとるべきことを申しいれ、十三日信玄は家康に対し、早く懸川城を攻撃するようにもとめた。