堀江城(当市舘山寺町)の大沢基胤(もとたね)は、今川氏真に従い家康の遠江進入に抵抗した。永禄十二年(一五六九)正月基胤らは、宇布見(うぶみ)(浜名郡雄踏町)の「とりで」を攻撃し敵船を奪う。【気賀一揆】「気賀一揆」の蜂起である。【堀川城】竹田高正・尾藤主膳・山村修理らは基胤に味方し、堀川城(引佐郡細江町)を築き、住民の約半数も籠城したという。氏真は塩硝六百匁(二キロ二五〇グラム)を基胤に与えている。【堀江城】家康は、二月松平家忠に命じて入出(いりで)(浜名郡湖西町)に陣し宇津山城(同上)を奪いかえさせ、井伊谷三人衆に堀江城を攻めさせ、みずから三月二十七日気賀堀川の「とりで」を攻めおとした。気賀中学校の西方約五、六〇〇メートルの田の中に「首塚」がある。堀川城兵や住民の遺体を葬ったのがここだといわれている(『細江のあゆみ』1・3・4・9号。なお富田準作氏所蔵『古世録抄』参照。山村修理の墓は細江町小引佐にある『遠江国風土記伝』。山村修理は紹巴をとどめて一会をもよおしている『紹巴富士見道記』)。さらに家康は基胤を降伏させ、堀江城にいることを認めた(『大日本史料』第十編之一。高柳光寿『三方原之戦』)。