浜松入城

22 ~ 23 / 686ページ
 このとき普請奉行倉橋宗三郎は、天主の石垣がくずれ七月十四日に死んだという(『寛永諸家系図伝』『岡崎領主古記』)。また木原吉次は惣奉行、小川家次も奉行であった(『寛政重修諸家譜』)。しかし、なおこれを統轄する惣奉行が別にあったろう。引馬城もとりいれ、その西方の高地に本丸以下惣廻(そうまわ)りの石垣、長屋などをつくり、三河・遠江の武士を移らせ、九月に改めて入城した。四月に越前(福井県)に、六月下旬は近江(滋賀県)に出征するあわただしいうちに工事が進められた。
 元亀元年七月、家康が上杉輝虎に和親を申しいれたときに浜松城の図などを贈ったとある。主要な部分はできていた図であろう。ただ『武徳編年集成』だから史実かどうか決定できない。のちの三方原合戦で、信玄が家康を誘いだしたのは、浜松城を攻めおとすのがたやすくなかったからである。それほど浜松城は壮大で堅固であった。