元亀元年六月(正月説もある)の入城から、天正十四年(一五八六)十二月駿河府中に移るまでの十七年間、家康は浜松に在城した。二十九歳から四十五歳、壮年期から中年期にわたる活動期である。
【岡崎城主 信康】家康が浜松に移るときに、岡崎は嫡子信康(のぶやす)に与えてその城主とした。信康は八月に元服している。十二歳。その十月二日家康は、自筆の書状を平岩親吉に与えた。「その方は三郎信康について岡崎城を留守せよ。信康のことはその方にまかせる。この名刀は納戸に蔵めておけ。委細は使者一衛門が申しのべるであろう」との内容である(『関戸守彦氏所蔵文書』)。愛児を想う親心が紙面にただよっている。
十月十四日に家康は、三河随念寺(岡崎市)に対し遠江井伊谷の地を寄進している(『随念寺文書』)。遠江の山間部まで権力が浸透したことがみられる。