家康の敗走

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 この戦いのくわしい経過は、戦いの日誌がないのではっきりしない。『三河物語』では、武田軍が石を投げかけてきたので、家康軍はきってかかり、一の手・二の手をきりくずしたが、信玄の旗本が集団となって逆襲してきたため、ついに敗戦となったという。家康三十一歳、信玄五十二歳であった。
 【成瀬藤蔵】このとき、成瀬藤蔵正義は弟一斎に命じ家康を浜松城に嚮導させてのち戦死した(『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』『柏崎物語』)。その墓は市内蜆塚町宗源院にある。【本多忠真】このとき本多肥後守忠真も殿戦し、ついに敵中に入り戦死した。三河大樹寺に葬られたが(『寛政重修諸家譜』)、その戦没地の碑は市内鹿谷町宗円堂にある。なお斎藤宗林(生国は尾張)も戦死し(『寛永諸家系図伝』)、その墓は市内天竜川町妙恩寺にあったという。【蓮華寺】市内紺屋町蓮華寺はその寺記によると、家康の臣鳥居四郎左衛門忠広が三方原で戦死したのをその妻が菩提を弔うために建てた寺だという(大正十五年発行『浜松市史』)。
 【夏目正吉】家康は小姓たちを討たせないため、集団となって退却した。夏目正吉は城中から馳せてきて殿戦して戦死した。その碑は市内布橋「犀ケ崖(さいがかけ)」付近にある。