信長の援軍の大将平手汎秀(ひらてひろひで)は、城に入ることができず、東海道今切(いまぎれ)(浜名郡舞阪町)に向かったが稲葉(いなんば)(当市東伊場)で戦死した。東伊場に「平手監物の墓」がある(渥美実「ひらてんさま」『土のいろ』第十七巻第一号)。佐久間信盛・水野信元は逃走した。家康軍と信長軍の戦死者は千人ほどと十二月二十八日付信玄が朝倉義景にあてた書状(『伊能文書』)に見える。また元亀四年(天正元年、一五七三)正月二日付の穴山信君の書状(尊経閣文庫所蔵『手鑑』)には徳川の家中のおもな者二千余を討ち捕ったとある。
玄黙口(げんもくぐち)(「遠州引間眼目寺と伊伽耶寺」は、天正四年十月の武田勝頼の判物『能満寺文書』によると、榛原郡能満寺の末寺。撤去され玄黙口となった)から浜松城ににげ帰った家康は、城門をそのまま開いておかせた。追撃してきた武田軍の先鋒は、城門まできて引き揚げた。