目次
/
第二章 近世初頭の浜松と徳川家康
/
第六節 三方原合戦
/
三方原の戦
三方原の戦の意義
32 ~ 33 / 686ページ
信玄のこの作戦は、遠江を占領するのが直接目的であったとの説もある。しかし三方原合戦には、浅井長政の使者が信玄方の陣営におり(『桃山武将真蹟展図録』)、信長は近江から岐阜に帰り迎撃の態勢を整えたなどの事実は、信玄が上洛作戦をするとの声明を単に揚言だとすることはできない。
信長は、元亀四年正月二十日付で家康の家臣戸田又兵衛直頼に対し、浜松の敗戦を問責するようにいい、これからのちの奮戦を望んでいる(『諸家感状録』)。
三方原戦図
祝田坂古戦場(引佐郡細江町)
三方原古戦場
三方原古戦場犀ヶ崖碑(浜松市鹿谷町)
平手監物汎秀墓(浜松市東伊場)