八月、三河作手(つくで)城(南設楽郡作手村)の奥平貞能(さだよし)は家康の起請文(きしょうもん)(誓書)をもらってのち、勝頼にそむき家康に復帰した。奥平氏は東三河の名族である。家康は、長女亀姫を貞昌(さだまさ)(信昌)に嫁がせることを約束している。家康は三方原(みかたがはら)の敗戦から衰えていた勢いを盛りかえすため、奥平氏を味方につけた。
信長と不和となって排斥運動をおこした将軍義昭は、武田信玄の上洛作戦と時期を同じくして軍事行動をはじめたが二回とも失敗し、紀州由良(和歌山県日高郡由良町)の興国寺に亡命している。義昭は、ここから諸大名たちに援軍をもとめた。天正二年三月二十日付で義昭は、武田勝頼・上杉謙信・北条氏政を和解させ、彼らと徳川家康・本願寺顕如光佐(けんにょこうさ)の五名に、じぶんが京都に帰れるよう尽力させようとして、謙信・家康らにこのことを命令している(『別本士林証文』)。四月に顕如光佐が軍事行動をおこしたのもこれと無関係ではない。亡命はしているが、前将軍義昭から徳川家康は、上杉・武田・北条ら第一級の戦国大名と同じ系列に扱われたのである。