誕生の諸説

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 この年(天正二年)家康の次子於義伊(おぎい)(結城秀康)が誕生した。四月八日参州産目村(安城市篠目か)で生まれたという説(『越前黄門行状』)と、二月八日辰刻に遠江国敷智郡宇布見の中村源左衛門正吉(『津山松平家譜』『中村源左衛門書上』『宇布見中村源左衛門由緒』)邸で生まれたとの両説がある。生母は於万(おまん)の方または小督局といい、三河池鯉鮒(ちりゅう)(碧海郡知立町)の池鯉鮒大明神の神主永井(見か)淡路守小野吉英の女という(『津山松平家譜』)。また熱田社(名古屋市)祢宜村田意叮の女との説もある(『幕府祚胤伝』『玉輿伝』)。於万の方は妊娠したため、家康夫人築山御前(つきやまごぜ)の非道な折檻をうけた。本多重次に助けだされ、二月八日浜松の城外有富見村で於義伊を出生したという(『以貴小伝』)。【宇布見中村氏】ここが宇布見郷の代官中村源左衛門正吉の邸であろう。中村氏の屋敷には、明治十七年(一八八四)十月五日建立の胞衣塚碑がある。於義伊の誕生地が参州産目村であるとの説も現地にはその所伝が残っておらず、宇布見の中村正吉邸に比定するのが、より高い確率をもっている(中村孝也『家康の族葉』)。