【横須賀城】このころ勝頼は、高天神城に兵糧をいれようとして、その南方の横須賀城(岩田孝友『遠江史蹟瑣談』)を攻めた。家康・信康父子はこれと対陣したが、勝頼はまもなくひきあげた。七月家康は、犬居城を攻めて天野景貫(天野氏の菩提寺は春野町瑞雲院)を追放した。これで遠江の北部地帯を制圧することができた。
八月に勝頼は、遠江金谷(かなや)峯の城に陣し牧野城をねらった。家康は佐夜中山に陣したが戦いはなかった。
天正五年正月勝頼は、小田原の北条氏政と和約し、その妹を夫人にむかえた。活路をみつけようとする勝頼の戦略である。
家康は、すでに出家して宗誾(そうぎん)という今川氏真を牧野城から浜松城に移していたが、三月に宗誾は、海老江弥三郎に暇を与えている。主従の縁をきったわけである。五月家康の兵は、今切(いまぎれ)に碇泊している兵船を奪取しようとしたが失敗した(『松平記』)。武田方のであろう。