高天神城を攻撃

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 八月勝頼は、高天神城の南部の横須賀に出陣したが、家康・信康父子の出撃で退却した。十月勝頼は、また小山城に入ったので、家康は馬伏塚に陣する。しかし戦いはなかった。この年家康は、鷹師の中河市助を出羽(山形県)にやり鷹をさがさせた。英雄閑日月ありというべきであろう。
 天正六年三月家康は、駿河に進み田中城を攻め、五月・八月にも田中城を攻撃した。【小山城を攻撃】八月家康・信康父子は、遠江小山城を攻め、十一月には馬伏塚に陣し勝頼を待ちうけたが、勝頼は高天神城へはいった。家康は苅田した兵糧二百俵を松平家忠に与えている。この年の十月二十八日、遠江に地震がおこっている。
 天正七年家康は、正月から三河吉良(きら)(愛知県幡豆郡吉良町)に放鷹し、英気を養っている。四月勝頼が駿河江尻をへて、遠江小笠郡国安に陣したので、家康も馬伏塚に出陣した。国安は高天神山の東南で、菊川が遠州灘にそそぐところにある。