天正七年七月家康の老臣酒井忠次は、奥平信昌とともに安土(あづち)(滋賀県蒲生郡)によびつけられた。信長は、徳姫が信康と関口氏とを訴えた書状を開いて詰問した。信康が逆心して、織田・徳川両氏の敵、武田勝頼と通謀し謀反をはかったということらしい。酒井忠次は信長の問いに対し、しっかりした弁解ができなかった。たとえ弁解しても信長は承知しなかったろうし、忠次の身も危くなるかも知れない。忠次は、信長がおそろしかったのである。信長は、信康を自殺させるように命令した。
忠次は、信康の居城岡崎にはよらず、すぐに浜松に帰った。そして家康に信長の命令を伝えた。八月三日家康は岡崎にゆき、くわしく事情を信康にのべて別れをつけ、翌四日三河大浜に移らせた。【堀江城】九日には、小姓衆五人と遠江堀江城(当市舘山寺町)に、のちさらに二俣城に移した。