築山殿殺される

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 築山殿は本坂道(姫街道)を三ケ日(みっかび)にでて、そこから浜名湖をわたり、宇布見から入野をへて佐鳴湖(さなるこ)にでて小籔(こやぶ)(当市富塚町)で上陸し、浜松城に入ることにした。小籔は佐鳴湖東岸の小さな部落である。【小藪御前谷 西来院】小籔から浜松城へ向かう途中、湖畔から約五〇〇メートルで蜆塚の台地となるが、その台地の下(御前谷(ごぜんだに)という)で築山殿は殺され、西来院(当市広沢)に葬られた(岩田孝友『遠江史蹟瑣談』)。時に八月晦日。なお築山殿の墓(『糀屋記録』に廟守入野村鈴木喜平次・同伝左衛門とある。また墓前には刀取をつとめた野中三五郎の子孫の寄進した灯籠がある)のかたわらには家康の異父弟久松康俊の墓がある。