信長の事蹟を書いたもので、もっとも信用のできる『安土日記』・『信長公記』(筆者太田牛一)から信康の関係記事をあげてみよう。
信長の祐筆(書記)であった太田牛一は、はじめは信康の逆心と書いたが、狂乱と書き直し、やがてこれをも削ってしまったらしい。和学講談所本系統本のこの記事をふくむ部分は、奥書によると、慶長十五年(一六一〇)二月の成立であり、すでに徳川家の権力は確立している。『関原御合戦之雙紙』を作り、家康の権力樹立を認めている太田牛一が闇に葬りさられた家康の長子徳川信康の名誉のため「逆心」を「狂乱」に書きかえ、やがてこの記事を省いたのであろう(岩沢愿彦「安土日記・信長公記」『新訂増補国史大系月報』三六号)。
徳川信康廟(天竜市清滝寺)
築山御前墓(浜松市広沢 西来院)
前田本 安土日記 | 去程ニ三州岡崎三郎殿逆心之雑説申候 家康并年寄衆上様へ対申無勿躰御心持不可然之旨異見候て八月四日ニ三郎殿を国端へ追出し申候 |
和学講談所本 安土日記 | 爰ニ参州岡崎ノ三郎殿不慮ニ狂乱スルニ付テ遠州城江ノ城ニ押籠番ヲスヱ被置候 |
原本信長記 | 爰ニ三州岡崎の三郎殿不慮ニ狂乱候ニ付堀江之城ニ押籠番ヲ居被置候 |
安土記 | 三州岡崎三郎殿不慮ニ狂乱卜云遠州堀江城ニ番ヲスヱ被置候由也 |
信長公記 | 無シ |