家康は、遠江高天神城を攻めるため大坂・中村(以上小笠郡)の両城を修築している。五月に家康は田中城を攻めたが、勝頼が近づいたので撤兵した。十月家康は、馬伏塚(まぶしづか)に陣し、長囲の陣をしき、信長に報告した。信長は、猪子兵助らを派遣してこれを検分させている(『家忠日記』)。勝頼は、高天神城の守将岡部長教の報告をうけて出動をしようとする。信長はこれに備えさせる。
この年、家康の四子忠吉(母西郷氏)と三女振姫(母秋山氏)が浜松城で誕生している。
天正九年二月五日家康は、高天神城のことについて信長が使者を派遣したのを感謝し、二月二十八日正親町(おうぎまち)天皇が信長の部将の騎乗をご覧になる儀式のことを祝っている(内閣文庫所蔵『御感書』さ之部)。