武田氏の滅亡

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 信長が武田勝頼を攻撃するため、進軍の意志をいつ発表したかは不明である。しかし高天神が落城すると、すぐに甲信地方への進撃準備を家康に命じたであろう。
 家康は信長に策応して、天正十年(一五八二)二月十八日浜松を出発し、駿河に入り武田氏の勢力をおさめ、甲斐に入る。勝頼は織田軍の滝川一益(かずます)らに攻められ田野(山梨県東山梨郡大和村)で自殺して武田氏は滅びた。【家康の領国駿遠三におよぶ】家康はその功によって三月二十九日駿河一国を与えられている。家康の領国は、三河・遠江・駿河の三国におよんだわけである。
 帰途、信長は四月十六日浜松城ヘ一泊、二十一日に安土へ帰った。【本能寺の変】ところが二か月余ののちに本能寺の変がおきた。
 このとき家康は、五月十一日浜松をたち、安土で信長の歓待をうけ、京都から堺に滞在中であったが、その報をきき、伊賀を経て六月四日岡崎へ入城し、弔合戦と公表して上京の途中鳴海で、羽柴秀吉より惟任(明智)光秀を滅したとの知らせを受け、二十一日浜松に帰った。