また、前太政大臣近衛前久(さきのだじょうだいじんこのえさきひさ)は、光秀の事件になにかの関係があったといわれ、光秀の敗死した翌十四日に出家(竜山という)して、京都を逃亡し、のち浜松にきて家康にたよった。十一月十二日、前久は甲州在陣中の榊原康政に書状をおくり家康への斡旋を依頼している(『竜禅寺文書』)。【竜禅寺】前久は竜禅寺(当市龍禅寺町)に滞在したという(『遠江国風土記伝』)。家康も教養面などでうるところが多かったであろう。翌天正十一年七月四日家康は竜山を饗応し、今川宗誾(そうぎん)(氏真)も陪席した。その九月四日に竜山は帰京している。【方広寺】なお天正十五年六月二十六日、方広寺住持に出世(この場合は紫衣を許すこと)の勅許があったとき、前久が副(そえ)状を出している(『方広寺文書』)。
天正十一年九月十三日、家康の五子信吉(母秋山氏)が浜松で誕生している。