五か国総検地

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 家康の民政の焦点は農民政策にあった。家康の五か国に対する検地として判明しているものは、元亀二年(一五七一)遠江、天正四年(一五七六)遠江、同十年甲斐・信濃、同十二年駿河、同十三年信濃、同十五年駿河・信濃、同十七年三河・遠江・駿河・甲斐・信濃、同十八年同前であり、右のうち天正十七年から十八年にかけて行なわれた検地は五か国総検地といわれ、家康の領国経営の中心事業であった。【遠江検地】この後、徳川氏の遠江検地は慶長九年(一六〇四)の総検地(第四章参照)まで行なわれていない。この五か国総検地の際に作られた検地帳で現存するものはきわめて少なく、現在知られているものは数部にすぎない。このうち、遠州地方のものとして天正十八年正月の「遠州伊奈佐郡井谷之内ミたけ之村御縄打野帳」(引佐町役場所蔵)と年代不詳(記載様式などからこの時の分国総検地帳の写しと断定できる)の伊奈佐郡気賀上村の「御縄打帳写」(文部省史料館蔵『気賀宿文書』)がある。