領国経営の方針

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 【検地帳の特色】前者の記載形式の特色は、(一)田畑の全筆が分付記載である(二)地積の単位は大半小一反三百六十歩の旧制である(三)屋敷の単位は坪で表記されていることである。また後者の特色は、(一)田畑は分付主別にまとめられている(二)地積は同前(三)屋敷の単位は坪で表示は貫高制、これに対し田畑は石高制となっている。以上両者の記載様式は大体において一致しており、三河の三例・信州の一例とあわせ考えて、これが五か国総検地帳の記載形式にほぼ共通する特色であったと考えられる(所理喜夫「関東転封前後における徳川氏の権力構造について」『地方史研究』第四四号)。別表は両検地帳の記載内容の一部を示したものである。このような検地帳の記載形式から判断すると、おおまかにいえば五か国総検地は今川検地(浜松市史史料編一』)にみるような戦国大名の検地から太閤検地を先駆とする近世大名の検地へ移行する過渡的な意味と役割を持っていたといえよう。家康の領国経営の基本方針は旧勢力・旧制度を尊重利用しながら徐々に独自の新しい支配方式を打出していくことであり、このことは五か国総検地にもあてはまる。【検地の意義】五か国総検地の意義については説がわかれている。この検地における分付主(百姓前としての有力名主層)の年貢夫役直納制を重視して、その本質は戦国大名の検地である、という見解がある。これに対して、分付百姓として農民一般を直接に把握し戦時に動員することを目ざした点で徳川権力が新しく近世大名へ転換脱皮する姿勢を示すもので独自の検地方式である、との説もある。【七か条定書】五か国総検地の意義はいわゆる七か条定書とも関連して究明する必要がある。五か国総検地とほぼ並行して家康は諸郷村に七か条の定書を下付した。
 【遠江六十四通】そのうち、現在知られている百三十四通についてみると、文言は大同小異でほぼ一定しており、時期は天正十七年七月(もっとも多い)から十八年二月まで、頒布された地域はほぼ五か国にわたるが、残存状態としては駿河六十通、遠江六十四通が多い(中村孝也『徳川家康文書の研究』上)。また駿遠地方のうちでも山間地帯にはほとんど見あたらないといわれており、このような文書史料の残存形態そのものからも定書の意味を考えることが望まれる。
 【和地村】つぎに敷智郡和地村(当市和地町)に伝存された七か条定書を引いてみよう。
 
「  定
 一 御年貢納所事、請納之証文明鏡之上、少茂於無沙汰者、可為曲事、然者地頭遠路ニ令居住者、五里中年貢可相届、但地頭其知行ニ在之者於其所可納之事、
 一 陣夫は弐百俵ニ壱疋壱人宛可出之、荷積者下方升可為五斗目、扶持米六合・馬大豆壱升宛地頭可出之、於無馬者、歩夫弐人可出也、夫免は以請負一札之内、壱反ニ壱斗宛引之可相勤事、
 一 百姓屋敷分者、百貫文ニ参貫文宛、以中田被下之事、
 一 地頭百姓等雇、年中ニ十日并代官倩三日宛、為家別可出之、扶持米右同前事、
 一 四分壱者百貫文ニ弐人宛可出事、
 一 請負之御納所、大風大水大旱年者、上中下共ニ以春法可相定、但可為生籾之勘定事、
 一 竹籔有之者、年中ニ公方ヘ五十本、地頭ヘ五十本可出之事、
   右七ケ条所被定置也、若地頭及難渋者以目安可令言上者也、仍如件、
   天正十七己丑年
       八月廿四日     倉橋長右衛門 花押」
 

みたけ村検地帳の一部分


徳川家七か条定書(和地村旧蔵 浜松市立郷土博物館蔵)


気賀村検地帳の一部分