天正十八年七月に北条氏が降伏すると、秀吉は論功行賞を行ない、大規模な大名の転封を断行した。【堀尾吉晴浜松城主となる】このとき、家康は功績抜群とされて関八州の領主として関東に移封され、浜松城主(家康の駿府移転後、土岐(菅沼)定政が浜松城を守衛した『寛政重修諸家譜』)には秀吉方の有力大名である堀尾帯刀吉晴が近江佐和山城(四万石)から移封(十二万石)された。さらに、掛川の山内一豊、横須賀の渡瀬詮繁、久能の松下加兵衛之綱、駿府の中村一氏など、家康の旧領であったこの地方には豊臣系の大名が配置され、家康は関東に敬遠された形になった。ただし、堀尾氏が家康とも交渉をもっていた点に注意したい。たとえば、吉晴は秀吉死後の豊臣家と家康との調停にあたっており、父子ともに関ケ原戦には家康方に属したのであった(『史料綜覧』『藩翰譜』)。
【堀尾二代】堀尾氏の浜松在城は父子二代(吉晴―忠氏)十一年間(天正十八年―慶長五年)で、このあいだに慶長四年(五年説がある)には吉晴に隠居料として越前府中城五万石(六万石説がある)が与えられ、忠氏が家督(浜松城十二万石)をついでいる。堀尾氏の浜松在城中の具体的な事績を物語る史料はきわめて乏しい。『遠江国風土記伝』に、浅間社(当市浅田町浅間神社)が堀尾氏の祈願所であったことが記されている。【普済寺】また、浜松普済寺(当市広沢)に下した制札があるのでつぎに掲げておく。
「ふさい寺并せいらいゐん(西来院)まハりはうじ(榜示)を相立候内、竹木きりとる事一切令停止、自然此方用所の竹木於在之者、すミつきを以寺へことハりを可申候、
右のむねをそむきみたりにきりとるものニは可加成敗候、若見のかしきゝかくし候におゐてはそのものゝまへより過銭五十疋可取者也、
文禄弐卯月廿日 吉晴 花押」 (『普済寺文書』『浜松市史史料編二』)