朝鮮征伐と遠江

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 堀尾氏浜松入城の翌年、すなわち天正十九年(一五九一)三月には、秀吉は朝鮮攻略のための軍役令を出した。この軍役令の内容をみると、遠州・駿河・伊豆・三河など高一万石につき三百人宛をだすこと、また海に面している国々は十万石につき大船二隻ずつ用意すること、船頭については、漁村の百軒について十人宛出すこと、その他船の予備として高十万石について大船三隻、中船五隻ずつ用意することなどがきめられている。この命令は各地の大名たちのみならず、領民すべての大きな負担になったことが察知される。文禄・慶長の二度にわたる朝鮮役は豊臣家の滅亡を早めた。浜松城主の堀尾氏は家康と同様に前線には出動していない。秀吉の死後、家康が名実ともに実力者としてクローズアップされ、慶長五年(一六〇〇)には関ケ原の戦が起こった。