家康は天正(てんしょう)十四年(一五八六)十二月、在城十七年間にわたる浜松城を去って駿河府中に移ったが、浜松城は存在する。一時は豊臣大名が在城したが、江戸時代を通じて譜代大名が城主(八五ページ城主表参照)であった。しかし、その遺構は天守曲輪の跡と石垣の一部を残すばかりで、その資料もいたってとぼしい。
城の絵図も時代の記入してあるものは、藩主青山氏時代(一六七八―一七〇二、延宝六年より元禄十五年にいたる)の「御家中配列図」(青山家旧蔵)、享保九年の絵図(一七二四、城主松平豊後守資訓。蓬左文庫蔵、以下「享保絵図」とよぶ)、安政元年(嘉永七年、一八五四)十一月の安政地震のとき御普請方の下書になる浜松城の被害絵図(県忍氏旧蔵、以下「安政絵図」とよぶ)があり、そのほか静岡県立葵文庫・浜松市立高等学校・須部弥一郎氏・川合治栄氏などの所蔵絵図があるが、ここでは主として「御家中配列図」・「安政絵図」によって記すことにする(「明治六年浜松城払下告示」によれば本丸・二の丸・空濠・あき地などを内郭としている)。