引馬城の築城

78 ~ 78 / 686ページ
 『浜松御在城記』に「馬込(まごめ)ヨリ御城近辺、惣而引間ト申ト相見申候。飯尾豊前守被居候引間城モ、今ノ古城ナルヘシ」とあるように、古城とは引馬城の跡をさしていったのだろう。しかし引馬城の築城年代や築城者は明らかでない。「此古城ハ、久野佐渡守末子中越中守屋鋪ヲ、永正ノ頃、三善為連ト申仁、城ニ取立候之由及承候」と『浜松御在城記』は述べ『曳駒拾遺』(『浜松市史史料編四』)もまたこの説を引用し、一説として三河国臥蝶城主大河内備中守貞綱の築城説や大河内兵庫の築城説をのせている。『遠江国風土記伝』も『曳駒拾遺』をそのまま引いている。しかし「吉良殿の内、巨海(おおみ)新左衛門尉この庄(浜松庄)を請所にして在城、よき城を構え」と『宗長手記』にあるように、巨海新左衛門尉の築城とするが穏当な説であろう(『浜松市史一』)。引馬城は永禄十一年(一五六八)四月十五日に「引間領之内入野郷(当市入野町)」の住民が「引間城内之塀弐拾五間」の修築を課せられている(『米良文書』入野郷は熊野那智社領であった)。