【家康】家康ははじめ遠江国見付に築城しようとしたが織田信長の諫めによって中止したという。そして引馬城が「前後四曲輪アリ。最モ規短に適」(『武徳編年集成』)していないので「先ツ飯尾豊前が古城ニ在ル城本城普請アリ。惣廻リ石垣、其上長屋立テラル」(『当代記』)とあるように、引馬城をふくめて、その西南の丘陵に新城を築いた。【城の規模】これが浜松城で、その規模は「本丸・二の丸・西羽曲輪・馬出曲輪・清水谷郭・三丸尉曲輪・鳥居曲輪等ノ名アリ。妙光寺(明光寺)薬師堂の南、深沼ヲ本城ノ後要害トセラレ、本丸惣囲石垣トシ、其上多聞ヲ建ラレ、当時隣国ニ稀ナル営構」(『武徳編年集成』)だったという。西羽曲輪は西端城曲輪に違いないが、馬出曲輪・鳥居曲輪はどの絵図にも記載がない。