天正の修築

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 浜松城は天正六年(一五七八)二月、つづいて松平家忠の奉行で天正七年二月と十月、さらに九年九月に修築された(『家忠日記』『史料綜覧』。『浜松御在城記』には天正五、六年とある)。思うに浜松城がいかに「隣国ニ稀ナル」堅城だったとはいえ、忽忙のさいだったので、天正へはいって数回にわたる修築を行ない、名実ともに家康の居城としてふさわしいように整備したのだろう。【浜松城の完備】後代につたわる浜松城は天正期に完備したと考えられる。
 浜松城の築城・修築にあたって多数の浜松付近の住民が使役にかり出されたにちがいないが、これを伝える資料はない。
 天正八年七月、五社大明神(当市利町)が「御城内ヨリ今ノ社地へ鎮座」(『浜松御在城記』)を命ぜられ、鍛冶職の守護神をまつる金山社(当市栄町)が城内三の丸から(『金山神社由緒』)、また城内の法雲寺(当市旭町)が替地を賜わって現在地に移転(『法雲寺記』)したと伝えているのは、浜松城修築の事情を物語っているようである。