明治元年(慶応四年、一八六八)五月、新政府は徳川亀之助(家達)を駿河府中に封じ駿・遠・参において七十万石を与えた。【徳川氏が接収】九月浜松城主井上河内守正直は上総鶴舞に移封(翌二年正月鶴舞へ移る)を命ぜられ、十二月十五日に浜松の城地は徳川家に接収された。『松永春英雑記』(『浜松市史史料編五』)に、明治二年十一月十二日の聞書として「遠州浜松城・掛川城・横須賀三ケ城、今度廃城之御願済之由」とある。
明治五年六月、陸軍省は城郭の取りこわしは同省の許可を得て処置するように命じ、同六年一月太政官は全国百四十四城その他の廃止を決定し、大蔵省に交付することにした。すでに時代がかわり城郭存在の意義が失われたためである。浜松城が正式に廃城になったのもこの時であった。ちょうど徴兵令が発令された月である。