近世の封建領主にとって城と町とは一体不可分の存在であったから、家康をはじめ、初期の浜松城主たちは城下の町立(町づくり)に力を用いた。その際に、他の多くの城下町建設の場合と同様に、道路・水路・住民の居住地域区分(職業階級別)などが重視されたことは推定されるが、その具体的な経過状況を知る的確な資料は乏しい。後世の由緒書・書上の類(『浜松市史史料編一・二・三』)を主として当時の概況を復原してみると、前記の諸時期が浮び上がってくる。【高力氏の町割】浜松の町づくりが軌道にのったのは、城主高力忠房の時代(元和五年―寛永十五年)であった。後にもふれるように、忠房は浜松在城二十年間におよび、浜松藩の基礎をきずいた城主で、彼が「町割」を励行したことは確実であり、寛永十五年には肴町からの請願にこたえて同地区の武家屋敷二つを払い下げている。