武家屋敷の人口

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 この武家屋敷の人口の資料は見あたらないが、幕府が定めた軍役負担(最終的には慶安二年に確定)の基準から算定すると、当時五万石の浜松藩は千百七十五人ということになる。浜松藩の家臣団の実数は、家族・奉公人・江戸藩邸詰めなどを考慮にいれても、武家の総人口は当時の町人人口(たとえば後述のごとく寛文期には二十四か町千百十一軒、元禄十六年には四千三百三十六人)を若干下廻るものであったろう。【浜松の推定人口】したがって当時の浜松の総人口は武家家敷三千人、町人家敷五千人、だいたい八千人弱とみてよかろう。それにしてもこのような城下町武家人口の消費生活を支えたものは、町人と周辺農村であった。つぎに地積であるが、すくなく見積って一軒百坪とみても五万四千坪余となる(後述するごとく元禄十一年役町坪数は二万七千九百坪、天和年間の無役町坪数は一万八千九百坪である)。しかし実際はもっと多かったろう。
 なおこの図に示されている城内の景観や武家屋敷の分布は、その後の城下絵図などとくらべてみても、幕末まで大きな変化を生じていないのである。次頁の表は井上藩当時の家中勤役と居住屋敷である。

浜松御城下略絵図


名残組屋敷(部分)


後道侍屋敷

(表)井上藩家中勤役柄(嘉永4年6月)
役職名居住屋敷人名役職名居住屋敷人名
郡奉行白山下馬杉新兵衛人馬割掛清水飯田又右衛門
早馬桜井久右衛門同所小池曾平
下垂飯島五左衛門船蔵森斧蔵
北高町浅村太兵衛道方奉行名残平野林五右衛門
代官後道清水助次郎下垂海老沢孫左衛門
文木犬塚啓三郎古城裏池谷太助
年行事下三浦勇次郎同上手代後道間野六助
代官手代文木長谷川半吾半頭町川嶋邑次
同所安川啓六蔵方掛後道篠原藤八
元木久保田銀吾百軒長屋軽部左一郎
船蔵竹山藤三郎山方奉行掛清水鈴木藤四郎
下垂入江定次同上手代 深谷半助
郡勘定後道林邑太文木和田勝次
早馬岡山勝三郎後道石井俊助
後道松下伝兵衛郡同心下垂田沼文三郎
白山下長山敬五郎文木□角三郎
圦樋奉行元木金子勝左衛門元木八木□元助
後道林邑太同所諸星順蔵
同上手代文木宮山専五兵衛後道高林善次
東早馬中村芳蔵名残直江保次兵衛
清水坂下文吾同所鈴木五三郎
半頭町志宮佐五兵衛文木田中定蔵
文木西松下理兵衛
宗旨奉行高町志賀宇右衛門
表早馬志賀新五左衛門
注 元木は元目、文木は分器に同じ   (田辺寛司氏提供)