武家屋敷に対して、町屋敷(町地)は浜松宿駅の伝馬役・人足役を負担する御役町(次節参照)と職人居屋敷を中心とする無役町とから構成されていた。商人町(交通旅宿業を含む)や職人町の源流は、後世の由緒書上類その他の資料から、徳川家康在城時代の誘致保護政策に求められる。【職人町】職人の場合についてみると、いわゆる御用職人の屋敷が城下に集住(職人町)してくる時期は寛永(一六二四―一六四三)以降とみられる。すなわち、御役町が東海道筋にそって城下町の中心部を形成するにともなって、その通筋や裏町・脇通に職人町を主とする無役町がしだいに発達したものと考えられる。【城下町浜松の確立期】寛文期の浜松の町数は二十四で、その町名などはつぎの表のとおりであり、ここに御役五か町(のち六か町になる)、無役十九か町からなる城下町浜松の確立をよみとることができる。