町の成立は村からの分離にほかならない。成立期の城下町では、都市域と農村域との分化は十分でないことが多いと言われている。また、町や村の概念も必ずしも自明のものではなかった。町とは非農業人口の集住地域であると考えるのが妥当性に富んでいる。土佐藩では街道沿いの人家の密集した地域は農漁であってもこれを町と規定していた。宝暦九年(一七五九)の『遠州浜松各町書上』(『浜松市史史料編一』)に、清水町(二十二軒)・猿屋(さるや)町(十六軒)は浜松の町数の中に入っているが、町内に家並無く所々に家が建っている、と記しているのは町の本質が家並集住にあることを強調したものである。【平田町】平田(なめだ)町についてみると、正保四年(一六四七)のころは家が八軒で八軒町と呼ばれたが、その後家が追々出来て承応元年(一六五二)に平田町と改称したという(『桑原家文書』)。「青山御領分絵図」(巻末に掲載する)には浜松地方における町の称呼をもった地名がいくつかみとめられる。【笠井町】たとえば、中ノ町屋・笠井町・市野町・天神町などである。『遠州浜松各町書上』に、「往還通り西端の七軒町・上新町は古来近村の伊場村・東鴨江村・浅田村の百姓の「名敷地」であって、これを借地して町並家取立をしている。したがって地子・年貢などは地主の百姓が負担している」と説明されていることは、町と村の分化過程を示唆するものとして注目に値する。【成子坂町】また鴨江村の一部が成子坂(なるこざか)町になっている(『旅籠町平右衛門記録』)。
町や村が当時の領主支配と密接な関係にあったことはいうまでもないがこれに関連して、当時しばしば見られた「○○町村」という形態について述べよう。【田町村】慶長十五年(一六一〇)の『浜松領御知行割』(『浜松市史史料編四』)に「一高三拾三石弐斗七升五合 田町村」とあるのは、当地方における古い事例である。【板屋町村 新町村】その後、寛文四年(一六六四)の印知状では浜松領分の村々のうちに田町村・板屋町村・新町村と見えており、このような事例は全国的に他の大名領にもあった。
これを前表の浜松二十四か町のうちの田町と比較する必要がある。【塩町村】そののちの『元禄高帳』をみると、田町三十二石余・板屋町三十石余・新町十六石余・塩町四百二十石余となっている。『遠江国風土記伝』の著者は「上記四町ハ浜松城下ニアリテ村数ニ入ル」と適切に注を加えている。四か町は城下町の一部として町奉行の支配下におかれていたが、その反面に石高を持ち(高ニ入ル、高入ニ成ルなどという)それに見あう年貢を上納する村でもあったのである。宝永年間の「浜松宿略絵図」(二二〇・二二一ページ)では田町・板屋町・新町の町屋の裏方は田畑となっている。かかる事例は掛川城下町や駿府にもみられたのである(『掛川誌稿』『駿府記』)。