肴町の起こりは家康在城時代とみられ(榎門付近の六軒の魚商)、その後魚商たちは本魚(もとうお)町に移り、さらに慶長五年(一六〇〇)のころに「肴町」に引越した。田町・旅籠町は往還筋にあり。旅宿が多く、肴町とならんで歩役百二十八人をつとめるようになった。(『糀屋記録』では、三町が歩役を仰せ付かったのは慶長十年という。)ところが、伝馬役町の利得に比較して歩役町の所得が少ないという不満が起こり、慶長七年には三町の者が駿府へ出訴して月末の十日間駄賃伝馬五十五匹を許可仰せ付けられた。したがって伝馬役方への御救物下給の際にはこの三町方へも支給されることになった。しかし、その後も二町方と三町方の間には、役負担の軽重や助成物の配分などをめぐって紛争がしばしばおこり、寛文八年(一六六八)に幕府は伝馬役と歩役とを併合して五か町で同等につとめ、助成物も等分に配分する旨を裁断仰せ付けた。【五町同役 御役町の確立】これが五町同役といわれるもので、御役町の確立である。【伝馬町 塩町 肴町 田町 旅籠町】この裁断にしたがって五か町の庄屋たちは、つぎのような申し合わせを行なった。
御役割の覚
二町方五分 三分七厘五毛 伝馬町御役門七五軒
御伝馬一五五疋 一分二厘五毛 塩町 〃 二五軒
人足一二八八人 三町方五分 三分一 肴町 〃 四九軒
三分一 田町 〃 五二軒
三分一 旅籠町 〃 二七軒
右の割合で、伝馬役・人足役を半月替りで問屋場でつとめる。御継飛脚は十五日ずつつとめる。