延宝三年(一六七五)の諏訪社の棟札(『浜松市史史料編二』)に、同社の遷座についてつぎのように述べている。―信州諏訪明神が天竜川を下って中嶋村(当市中島町、馬込川畔)に漂着奉祀されたのがこの神社の起こりである(享徳三年、一四五四)。そののち、弘治二年(一五五六)大明神の神宣にしたがい神主がやしろを「浜松駅屋之上」の地にうつした。【浜松の五社】そして三代将軍家光の命令により寛永十一年(一六三四)から社殿の修造が始まり、この時に社地を「並宮」の五社と一緒に引きあげて西山へ遷した―駅屋之上とか西山へ引きあげという傾斜地は正徳三年(一七一三)の『曳駒拾遺』が「常寒峠(とこさむのとおげ)」としてつぎのように説明したところである。―この峠の名称・場所を今では知っている人は稀である。駅路からつづきの道を西にのぼり、清水谷にくだる所にあって「きわめて風はやき所」で夏の日も寒さを覚えるほどで、この名がつけられたと言われた所である。慶長のころまではここに五社・諏訪社はなかった―五社が浜松城内からこのあたりにうつされたのは浜松城普請の時(天正年間)ともいわれている。【遷座】両社のこの地への遷座は、あるいは傾斜地を下から上手へと二段階に行なわれたのではなかろうか。ともあれ、宝永期の「浜松宿略絵図」にはそのような両社の景観を適切に描いている。【整備】その後、宝暦年間の「浜松御城下略絵図」(『浜松市史史料編一』参照)には神主屋敷も含め整備が一段と進んだ両社の状態が活写されている。「五社大門通」「諏訪大門通」東西約五十五間(享保九年の『遠州浜松各町書上』)がここにみられる。【浜松城主の保護】徳川将軍家は、二代将軍秀忠の御産神としても、五社諏訪の大明神を崇敬し手あつい保護を加えたのであったが、その意をうけて浜松城主たちも両社の保護に尽力した。そのことによって城主城下町の権威も高められたことが、社殿の修造事業・棟札の記載事項からも察知される。浜松城下の建設に意を用いた城主高力忠房は寛永十五年、五社・諏訪両社の広前に石の手洗鉢を献納し、同じく太田資宗は寛文十一年に、太田資次は延宝三年にそれぞれ石灯籠を献納している。