幕府と藩の二重支配

102 ~ 103 / 686ページ
 江戸幕府は当初、年番・代官・関東奉行などに宿駅を支配させたが、万治二年(一六五九)以降幕末まで道中奉行を置いてこれにあたらせた。ところで、浜松宿は浜松領内にあったので浜松藩主も宿駅の維持に関係をもち、宿場をめぐる幕府と浜松藩の権限や浜松宿住民に対する二重支配の問題が発生したのである。幕藩体制形成途上の当時において、幕府・藩・宿住民三者の役割は流動的な状態からしだいに定着しつつあった。そのことを端的に示していると考えられる二、三の出来事をつぎにとりあげてみたい。【高力氏時代】元和五年(一六一九)、幕府は老中連署を以って浜松城主高力忠房に対して、浜松宿における伝馬人足の御朱印改めをきびしく行なうべきこと、荷物の貫目を定めのとおりにしらべるべきことを命じた(『旅籠町平右衛門記録』)。【中番所】その結果、高力氏の在城期間中(約二十年)、高力の給人衆二人・足軽衆六人が順番に朱印改め役として中か御番所に毎日出勤した。この時、伝馬制創始の時から浜松宿の問屋として朱印改めを命ぜられていた伝馬町の杉浦助右衛門は「内勤」のため中か御番所に出向いていた。内勤とは家中役人の補佐役と一応は理解されるが、両者の役割は判然とはしない。【朱印状の保管】寛政期の『浜松宿御役町由来記』には「中か御番所には伝馬御朱印が今日まで保管されているが、それは城主様の預かりでもない、代々の町支配役人と役町の庄屋共とが立ち合いの上で封印を施してきた。しかし今日では庄屋共は上封印のみに関係しているから御朱印箱の中のことは知らない。また城主交替の際には新旧双方の家来が立ち合って改めた上で受け渡した」とある。ともあれ、朱印改めの権限もしくは施行をめぐる幕府・藩・役町三者の役割には年代的な差異があったとみられる。