延宝二年、幕府は浜松宿拝借銭千貫を金二百五十両として取り扱ったが、当時銭相場下落のため実際には金二十七両余が不足することになった。浜松城主はこの不足分を足して金二百五十両を宿方に渡した。城主太田資次は転封に際し幕府宛につぎのような伺書を差し出した。―浜松宿が寛文八年に幕府から拝借した銭三千貫の処置をどうするか、同じく万治三年の金三百両については今日までの元利合計は高額に達しており、これをこの際取りたてると役町の者が困窮すると思う。―これに対して幕府は、前者については返済すること、後者については利子を「用捨」して元金三百両の拝借とするからその旨を手形にして新城主に申し送るべきことを指示した。以上は幕府からの助成に関したことがらであるが、延宝年間から浜松藩主の助成が増大することに注目したい。延宝九年、幕府は御料の宿々へは金三百両宛の拝借をさせたが私領内の宿へは出さなかった。浜松宿では浜松城主から金三百両を拝借した。その後、宝永元年(一七〇四)にも幕府は御料の宿々のみに銭八百貫文宛拝借させ、浜松宿では城主から米三百俵拝借した。正徳三年(一七一三)、浜松御役町の問屋・庄屋は連署して、近年役町は困窮しているが城主からたびたびお救いがあって役町づとめをつづけている、と道中奉行宛に報告している。