松平忠頼

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 松平忠頼は徳川家につながる族党として三河に繁栄したいわゆる十八松平の一つである桜井松平氏の出身で、天正(てんしょう)十年(一五八二)大御所の妹を母として生まれた。【五万石】慶長五年関ケ原合戦に際し、岡崎城を守り、戦後美濃金山城の地一万五千石を賜わり本領の武蔵八幡山の地と合して二万五千石となり、ついで浜松城主五万石に封ぜられた。これは兄の松平家広の遺領をついだものであるとの説がある。【浜松入封】関ケ原戦勝後、家康は論功行賞を名として諸大名の大規模な改易転封を行ない、遠江においても豊臣系大名を遠隔地に移しそのあとへ譜代大名を封じたのであるが、忠頼の浜松入封もその一環であった。忠頼は慶長十二年(一六〇七)火災にあった駿府城の普請役をつとめている。そして同十四年江戸において大番頭水野氏の茶宴に招かれて死し(死因については諸説があり、時に二十八歳)、所領を没収された。忠頼の領地に対する治績は不明である。