水野重仲

107 ~ 107 / 686ページ
 水野重仲は幼少の時から家康に近侍し、天正四年大番頭に任ぜられ、慶長十三年水戸城主徳川頼宣(よりのぶ)の御付家老(傅(ふ))を命ぜられ、常陸において一万石の領地を賜わった。【浜松不穏】忠頼死後の浜松地方の状態について『徳川実紀』に「浜松の旧領狼藉やむときなし、よって水野備後守分長・水野対馬守重仲をして浜松城につかはされ、かの地を監察せしめらる」とあるのは興味深い。【浜松入封】慶長十四年頼宣が駿遠両国五十万石の領主(国主)に封ぜられるや、重仲もこれに従って移り、浜松城二万五千石を与えられた。『駿府記』に、慶長十六年九月重仲は遠江国で隼を求め、鷹狩愛好の家康に献上したが御意にかなわず返却されたとある。【三万五千余】大坂の陣には頼宣に従って参加し、ついで一万石余の加増をうけた。重仲宛の知行状(『浜松市史史料編四』)は初期の浜松藩領の実態を示す貴重な史料である(後述)。元和(げんな)五年(一六一九)頼宣の紀州移封にともない、重仲も同国新宮城に転じ、水野家はその後も紀伊家の御付家老として同地を襲封した。城主というよりも紀伊家に奉仕する官僚もしくは家中というにふさわしい経歴であった。