これよりさき、慶長四年父の遺領をついで岩槻城主となった。【浜松入封】元和三年奏者番となり、同五年浜松城に移封され、長上(ながかみ)・敷智(ふち)・豊田(とよだ)・麁玉(あらたま)四郡の内で加増、総計三万一千五百石余を領有した。寛永(かんえい)元年から同九年まで、徳川忠長(ただなが)(家光の弟、駿河大納言として有名)が駿遠国主に封ぜられていたが、忠長と忠房との交渉については不明である。【島原移封】忠房は寛永十一年には将軍家光から五千石の加増を受け、同十五年に肥前島原城に移封となった。五社神社諏訪神社(両社は昭和三十五年から五社神社諏訪神社という)には忠房の寄進した石の手洗鉢二基がいまも残っている。
高力摂津守忠房寄進手洗鉢(浜松市利町 五社神社諏訪神社)
幕府は忠房が島原に移封と決定したとき、彼地は乱後のことであるから、よく法令を定めて領民を鎮撫し所々の農民を集住させるように、と命じている。忠房が祖父以来の縁故地遠州浜松に入封した元和五年は、江戸時代を通じて大名の転封がもっとも多かった時期であり、浜松を去った寛永十年代は譜代大名の転封が多かった時期であったことを考えると、忠房はそうした幕府の大名人事の渦中の人であったといえよう。島原転封には乱後処理のほかに外様大名地帯に送りこまれた譜代大名の先駆という意味が含まれていた。幕府は外様大名対策の拠点として肥前の島原・唐津と出羽の山形の三藩を重視して譜代大名を配置したのである(後年、水野氏が唐津→浜松→山形と転じたことは偶然のことと思えない)。当時の幕府は、高力家とくに忠房を高く評価し、そのはたらきに期待をかけていたように思われる。