太田資宗(すけむね)は武蔵で生まれ、幼少より家康・秀忠に近侍し、寛永九年書院番頭から小姓組番頭にすすみ、同十年「六人衆」(のちの若年寄)の一人に加えられた。同十五年奏者番に任ぜられた直後に三河西尾城主三万五千石に封ぜられた。このように資宗は幕府の役職に就任した後に新たに譜代大名に取立てられるという寛永期の特色を代表する大名の一人として注目される。【浜松入封】寛永二十一年(正保元年、一六四四)浜松城に移されたが、この前後に『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』編纂の奉行をつとめ、日光山の普請奉行を命ぜられ、三河鳳来寺(ほうらいじ)造営にも関係している。【浜松藩領確立期】寛文(かんぶん)四年将軍より知行地の朱印状(寛文印知)を賜わり、ここに浜松藩領の確立をみるにいたった(後述)。同十一年致仕(ちし)した後も、嗜みとしていた猿楽舞・点茶を通じて将軍家に出入し、延宝(えんぽう)八年死去(八十一歳)。参考までに資宗に対する『藩翰譜(はんかんふ)』の評論の要旨を左に紹介する。
「資宗が家光の代に身を立て家をおこした理由は、彼が日夜奉公にはげんだせいであるが、そのほかにも世評には次のことがあげられていた―家光と忠長の間に将軍継嗣争いがあった際、家光の乳母春日局が於梶局(資宗の叔母で、忠長の寵愛をうけていた)に話をした結果、家光将軍が実現した。春日局は家光に対して於梶局の恩を忘れないようにと伝えたので、家光は於梶局のただ一人の縁者である資宗をひきたてたのである。」