宗俊は寛永九年罪をゆるされ、同十五年相模で三千石を賜わり書院番頭となった。その後慶安(けいあん)元年、家光の格別の恩命により信州小諸城主三万石に封ぜられ、在城中は意を民政に用い治績をあげた。寛文二年に大坂城代に転じ、その所領五万石は摂・河・泉三か国のうちを主とし、これに遠江敷智郡のうち五千石(浜名湖西岸)の飛地が含まれていた。【浜松入封】延宝六年、高齢の故を以って大坂城代を辞し、遠江浜松城主五万石に封ぜられた。【青山忠重】延宝七年宗俊死し、次男忠雄が襲封して浜松城主となったが貞享(じょうきょう)二年病没(三十五歳)、宗俊の三男忠重が忠雄の養子となり遺領をつぎ元禄十五年まで浜松城主であった。
以上の歴代浜松城主のうち、幕藩体制確立期の浜松地方に大きな影響力を持っていたのは高力氏・太田氏・青山氏であったと考えられる(後述)。
青山因幡守宗俊内藤氏宛書簡 (浜松市貴平町 内藤金弥氏蔵)