土地支配の表現または租税徴収の手続きという意味での検地は日本史上にしばしばみうけられた。中世荘園の「検注(けんちゅう)」や戦国大名の検地については『浜松市史一』および本巻第二章で述べたが、以下近世の検地について考察する。一般的にいって近世検地は、幕藩領主層が村ごとに土地(田畑屋敷)を調査してその所在・種類・等級・面積・生産高(生産力を米で表示したところの石高(こくだか))を確定し、その土地の名請人(なうけにん)を登録し、これによって土地の支配関係や租税徴収の基礎を確立する作業であった。【村単位】検地が村単位に施行されたことは、中世以来の郷・庄をいくつかの村に分けるところの村切り政策や貢租の村請制(後述)とも密接な関連があり、検地に際し「遠州敷知郡内河輪庄三嶋村」のような記載例が多くみられたり(元和三年『浜松領知行目録』)、当地方の検地帳に「遠州浜松庄早出村地詰帳」(承応二年)、「遠州長上郡河和荘松島村新田検地帳」(寛文七年)というような記載例が散見されることに注意したい。