慶長検地

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 江戸幕府は当初主として幕府領と譜代大名領に対して検地を行なった。地方巧者といわれた伊奈忠次・彦坂元正・大久保長安らが当時の検地の推進者であった。【辰検地】辰御縄と呼ばれた慶長九年の総検地は、関ケ原戦勝後の処置として全国的に行なわれたもので、幕領は伊奈忠次その外の代官が担当し、城付地は城主がこれを行なった。【遠州総検地 水帳】この時の遠州総検地について『掛川誌稿』(文化年間成る)には「九年に至り伊奈忠次を奉行として再本国の総検地ありしなり、俚俗呼て辰の検地と云、是を前例に較すれば寛に過ず刻(ママ)に入らず愈精確にして遺す所なし、頗る中庸を得ると云べし、其後再三検地ありし村は必窮民多し、治郡の吏察せずんばあるべからず、さて其水帳の稿本を見るに頗る国初前後地理の沿革を考るに足るものなり、(中略)其後時に随て公私の検地もあれど後の水帳には一事の取るべきものも見えざるなり」とある。