この安間新田村の田畑の名請人の記載形式をみると、「七郎左衛門名敷」とあるものが六十筆、「小作誰某」とあるものが五十八筆、宝高坊(寺院)二筆となっている。この内容については『安間新田村安間家覚書』(『浜松市史史料編三』)慶長十八年の条に記されていることが当たっていると思われるので、その要旨をつぎに紹介するが、これは近世新田村落の成立方式の一つを示したものとしても興味がある。―七郎左衛門(安間家の先祖で、安間新田の開発者)が本田・新開発見取場を「近村江小作預」にしたところ、その中で下石田村の二郎右衛門・二郎左衛門両人は、慶長五年に安間新田が一村として定まった時から夫役などを自分に代わってつとめてきたので、「当所之百姓ニ取立」てるつもりで、慶長十六年御検地の際に二人にそれぞれ「屋舗」をあたえた。【百姓取立】そして十八年二月に「当村へ引越」してきた二郎右衛門に本田高一石三斗一升六合見取場田畑二反七畝歩余を「分地」し、同時に二郎左衛門にも本田高一石九斗九升一合見取場田畑三反歩余を「分地」して、当村の百姓に取り立てた。同年八月、下安間にあった七郎左衛門の田地を小作していた七郎五郎が当村へ引越しを希望したので、前に二郎左衛門にあたえた屋敷があいていた(二郎左衛門は下石田村に居住していたから)のを七郎五郎にあたえて「家作」をさせ、本田高二石五斗四合、見取場一反歩余を「分地」して当村の百姓に取り立てたのである。
安間新田村では、その後元和(げんな)年間から寛永(かんえい)初年にかけて同様な当村の百姓に取立てということが再三行なわれている。
慶長十六年北嶋村検地帳(浜松市北島町 大橋正夫氏蔵)
慶安五年安間新田村検地帳(浜松市安新町 安間 祐氏蔵)