浜松藩検地の起源は明らかにしがたい。高力忠房の時代(元和―寛永)に検地に意を用いたらしいことは断片的な史料から推察される。安間家文書によると、忠房は浜松城主として入封すると直ちに新田改めに着手しその反別帳を提出させているが、これは指出(さしだし)検地とみられる。【太田検地】その後、太田氏の承応(しょうおう)年間から寛文・延宝のころにかけて浜松藩検地が本格的に実施されたことは、一一三ページの表の検地帳残存状況その他からみて確実であり、『随庵見聞録』(『浜松市史史料編二』)に「惣而太田殿御代ニハ一村へ一度二度ツヽ検地入候」とあるのも誇張ではあるまい。大瀬村では承応二年(一六五三)に本田・新田が残らず検地されて古水帳取上新水帳作成、以後総検地は行なわれなかった(『下大瀬村年代記』)。【新田検地の励行】その後浜松藩では寛文末年から延宝・元禄にかけて新田検地が励行されているが(前掲検地大勢一覧表)、これは新田開発の進展(後述)と表裏一体のことであった。