【分付百姓の性格】

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 【本百姓】分付百姓の性格については諸説があるが、本家の二、三男や主家の従属農民が本百姓として独立していく過程を示したものと考えられる。いずれにしても分付記載は近世初期に多くみられ、幕藩体制の確立につれて減少していった。【連名記載】前掲表にみる北嶋村の名請人二名并記の内容は、五郎左衛門・権右衛門が五筆、兵右衛門・権右衛門が七筆、伝三郎・勘十が十筆の合計二十二筆であるが、各組合せの二人の関係は不明である。上掲の下飯田村の場合にも二名連記が本田に三筆、新田に一筆あるが、二人の関係を明らかにすることができない。この場合、近世初期の検地帳に登録された者は世帯(家長戸主)ではなくて家族個人であろうという見解(河合勇之助「近世初頭近江地方検地帳の研究」『広大史学研究記念論叢』、新沢佳大「役屋制度と名子概念」『史学雑誌七五の八』)は有力な参考資料になると思われる。【連名記載と新田検地】ともあれ、連名記載は当地方の村々の検地帳にしばしばみうけられ、とくに新田検地にその例が多かった。一例として、近世後期の天領鶴見村の新田検地帳を上に表示するが、この場合、三名以上の連記があることにも留意したい(『鶴見町共有文書』)。
 
名請人数一人二人三人四人五人六人郷中(村持)
検地年次
寛保3       
156263000010 
延享48351000024 
寛延2202487216 
寛延4151900000 
宝暦225400000 
宝暦8129000000